以前「叔父の思い出(1)」に書いたことを繰り返すことになるが、私は高校3年生のとき、叔父の厚意で大阪万博と京都見物に行かせてもらい、その旅行中、万博会場や宿で様々な言語を話す外国人観光客に出会って大いに知的刺激を受けた。そうした興味が発展する中で、私はのちに東京外国語大学モンゴル語学科に入学することになる。そこでの私の関心は言語学的な方面とともに、モンゴル人の清帝国(中国)からの独立運動の歴史に向いていくことになる。この二つの関心は今日まで続いているのだが、最近何気なく手に取った本の中で、私は意外にも、叔父の師であった岡田三郎助先生の絵と出会ったのである。
(山室信一『キメラ------満洲国の肖像』増補版、中公新書、p.11)
この絵は旧「満洲国」(満洲帝国)国務院大ホールの壁画として1936(昭和11)年に描かれたものだという。中央に描かれた5人の若い女性たちはそれぞれ満洲、朝鮮、日本、中国(漢人)、モンゴルの民族衣装を身に着けており、右の3人の男性は農民、牧畜民、漁民の姿をしている。これは明らかに満洲国のスローガンであった「五族協和」「王道楽土」等を視覚化したものである。年譜から計算すると、このとき岡田先生は67歳。亡くなる3年前である。調べてみると、他にも辻永、藤島武二、石井拍亭等、叔父のエッセイに登場する著名な画家たちが「満洲」を題材にした作品を描いて官展に出品していたことを知った。そのことについては、千葉慶「不安と幻想 ---官展における〈満州〉表象の政治的意味--- 」(千葉大学大学院人文科学研究科研究プロジェクト報告書第175集、2008年)に詳しいので、興味あるかたにはご一読をお薦めしたい。(インターネットで見ることができます。)
やはり以前に『藤田嗣治展を見て ~西村俊郎と藤田嗣治の接点、「戦争画」のこと~』でも書いたが、あの時代、特に「官展系」の画家たちは決して「国策」から自由になれなかったのだということを改めて思い知らされた次第である。さらに、その後の歴史を知っている立場からものを言うのとは違って、時代の真っ只中で政治の動向を判断することの困難さと怖さについても考えさせられた。ちなみに、清朝支配下で無力化させられていたモンゴル人たちの中には、独立のために満洲国と日本軍に期待を寄せ、実際に協力した者も少なからずいたのである。しかし日本の軍部にとっては「満洲」や「蒙古」は、単に中国を解体するために利用価値のある道具に過ぎなかったということは言うまでもない。(2018.12.16)
◆関連記事 → 岡田三郎助『民族協和』を巡って-------再び(2023.8.27)
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