浜田知明「初年兵哀歌(歩哨)」との再会
- 西村 正
- 2022年2月3日
- 読了時間: 4分
更新日:2024年1月8日

朝日新聞1月25日夕刊2面の「美の履歴書731」に載った「初年兵哀歌(歩哨)」(銅版画、1954年)にはどこかで見覚えがあった。雑然とした自分の本棚を探してみると、あった! 50年近く前、大学に入ったばかりの頃に一所懸命に読んだ『草原と革命----モンゴル革命五十年』という本の表紙カバーに使われていた作品なのであった。著者の田中克彦氏は東京外大モンゴル語学科の先輩でもある学者で、私が当時心酔していた人だが、本の内容とこの銅版画作品に直接の関係はない。あるとすれば同時代の戦争を生きた兵士の悲哀であろうか。しかし、この作品は私の記憶に入り込んで以来、長い間消え去ることがなかったのである。
作者の浜田知明(はまだ・ちめい、1917—2018)は戦後の日本を代表する銅版画家で、従軍体験をもとに1950年代に制作した「初年兵哀歌」シリーズの中の本作品は1956年にスイスのルガノ国際版画展で次賞に選ばれたという。ちょうど茅ヶ崎市美術館で「浜田知明 アイロニーとユーモア展」が開かれているというので、もうすぐ6歳になる孫を連れて観に行った。孫と一緒に行ったのは保育園がコロナ休園中のため子守りが必要だったという事情もある。
茅ヶ崎市美術館には初めて行ったのだが、駅からほど近いにも拘わらず木々に囲まれた静かな佇まいで、落ち着いた好感の持てる美術館だった。しかも駐車場もある。
「初年兵哀歌」(シリーズ)について浜田は次のように書いている。
入隊した以後のことについては私はほかの場所で書き、あるいは喋ったことがあるが、誤解のないよう言っておけば、私は決して勇ましい反戦の闘士でもなければ、反軍の闘士でもなかった。もっともその当時、明らさまに反戦や、反軍を意思表示したならば、直ちに軍法会議に引き出され、刑務所に放り込まれるか、その生命の保証もされぬ時代であった。
私は本来人間は基本的に平等であるべきものだと信じていた。しかるにこの軍隊という社会は、一つ星の初年兵を底辺としてピラミッド状に階級があり、その階級差と年次とを厳格に守ることによって秩序が維持されていた。旧日本軍隊のやり切れなさは、戦場における生命の危険や肉体的な苦痛よりは、内務班や内務班の延長上にある戦場での生活において、戦闘行為遂行に必要な制度として設けられた階級の私的な悪用からくる不条理にあった。
戦地に一歩足を踏み入れた時、そこで行われていることが大東亜共栄圏建設のための聖戦という美名といかに裏腹なものであり、日本国民の福祉のために行われているはずの戦争が、実は日本を支配しているごく一部の人達のためのものであるらしいことを私は知った。
国体について、軍について、上官について、一切の批判は許されなかった。絶対服従と事あるごとに加えられる不当な私的制裁の下で生き抜くために、兵隊たちは要領よく立ち回ることを覚え、一人の人間から一箇の歯車に転化していった。不条理と矛盾の渦巻く中で、それでもモノを考えることを止められなかったものは、どのような生き方を選べばよかったのであろうか。
何一つ明るい希望はなかった。いつ果てるとも知れぬ戦争と、納得できぬ戦争目的と、抑圧された自由の屈辱から、自殺への誘惑が間歇的に自分を襲った。
【「現代の眼」東京国立近代美術館ニュース1972年二月号への掲載文から部分引用】
この文章に全てが要約されているのではないだろうか。銃口を喉元にあてて自殺を決行せんとしている初年兵の眼から流れ落ちる涙の意味が。

浜田知明「アレレー」(1974年)→
まだ5歳の孫にどれだけ理解できたかは判らないが、敢えて説明はしなかった。ただ「怖いか?」とだけ訊いてみると、孫は「怖くない」とだけ答えた。全体に重苦しい作品が多い中に、こんな作品もあった。「アレレー」と題されたこの作品は孫のお気に入りである。
(2022.2.3) -------- 孫の満6歳の誕生日に
油彩でなく、石版や木版でもなく、
一人の画家が銅版画に魅せられる秘密は、
他の材料にくらべて、
銅版画だけが表現できる金属的な鋭さ、
画面のもつ冷たい感じにあると思う。
銅版画の白黒の作り出す深い明暗は、
寡黙に人々の魂に語りかける。
鏡のようにみがきあげてグラインドを敷き、
黒光りする銅版に、
不氣味に青く澄んだ硝酸の中で
鉄筆で描かれた線条がくっきりと姿をあらわす時、
銅版画家は中世の錬金術師にも似た神秘な感情をもって、
生まれ出ずる新しい生命をのぞきこむ。
----『浜田知明 よみがえる風景』(2007年、求龍堂) p.10より引用。
※「初年兵哀歌」の引用文、銅版画作品「アレレー」の写真も同書から引用、接写させていただきました。
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