1987年 朝日文庫
私は幼少の頃から画家である叔父の近くにいたのに自分ではほとんど絵を描いたことがない。小学校で図工の時間が楽しかった記憶もない。ただ一つ覚えているのは中学校の時に一度だけ美術の先生が私の絵を見て「いいじゃないか!」と言ってくれたことだけである。それでも叔父の絵はいつでも見ることができたし、アトリエにあった画集を通じて世界の有名画家の作品を知ったのがきっかけになって美術館巡りも随分してきた。そして今では、素人ながら叔父の作品の管理と紹介が一つの仕事のようになっている。
そんな私が最近手に取って読んだのがこの本だ。著者の風間完(かざま・かん 1919--2003)は挿絵画家として知られている人で、この本は1987年の発行だから、もう37年も前のものである。実はもう30年以上前に買って本棚に置いてあったのだが、たまに背表紙を眺めるだけであった。それがどういうわけか最近になって読んでみたくなったのである。
私がこの本を選んだのは、この本にはちっとも押しつけがましいところがなく、絵の本質のようなものを素朴で謙虚な言葉で語るだけのものだったからかもしれない。例えば、最初に置かれた「絵を描く人へ」という章には次のような箇所がある。
われわれ職業画家が絵を描くときは、言うまでもなく自分の仕事をしているということにほかなりませんが、プロでない人にとっては、たとえば歌をうたったりすることと同じように、一つの楽しみの行為であり、また一つには精神衛生上のよきレクリエーションであったりするわけです。
仕事ということになると種々の制約ができてくるのは当然ですから、もともと好きで始めた職業であっても、時によっては苦しいこともあります。
この点よき趣味として絵を描く人のほうが伸び伸びとした自由さがあります。我々プロもそういう精神状態で絵を描きたいと思うことがしばしばあります。何故なら、そのほうが画家としてもより素直で自然な制作態度だと思うからです。・・・・
描こうという気持ちのことを我々はパッション(情熱)と言っています。パッションがあって次にヴィジョン(映像)が頭の中にできてきます。ヴィジョンを定着させる作業が絵を描く作業ですが、この時メチエ(技法)の問題が大きく作用してきます。・・・・・
ただ絵の世界では、たとえば口先だけで物事を処理するということが無いのでメチエというものが、もっともまぎれのない形で必要になってくるのです。
良い絵を描く考えだけがいくら立派に頭の中にでき上ってもメチエを通して実際の絵にならなければ絵を描く人にとっては無意味なのです。
メチエでものを考えられない人は、したがって、いつまでたっても絵にならないわけです。
画家の場合は、ヴィジョンはメチエの裏づけをとおして生まれてくるものです。わかり易く言えば、画家は自分が画面に置きたいと思うその画家独特の線や、色のぐあいをいつも考えているわけです。・・・・・
【以上、引用終わり。・・・は「中略/後略」を表す。改行と文字使いは原文通り】
以下、このような短い章が30余り続く。読み進むうちに、いつの間にか、自分にもできるかも‥と思い始めていることに気づく。
このところ、水彩画と油彩画の両方が観れる展覧会を探して画廊巡りをして、いくつか指南書を集めてきました。表紙だけ紹介しましょう。大いに刺激を受けてワクワクした気持ちになっています。
本日は、当ウェブギャラリーを始めてちょうど6年が経った記念日に当たります。
7年目のスタートです。気持ちを新たに、前向きな気持ちで進めていきたいと思います。
皆様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 (2024.7.14)
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